2011年2月28日月曜日

アイヤイヤイ

2才9ヶ月の娘2が2語で言葉を出すようになりました。歩くのも遅かった(1才6ヶ月)ですが、ま、これは1才7ヶ月でやっと歩いた娘1よりは早い記録です。そんなふうに比べてはいけないのですけど娘2はなかなかしゃべらない子で姉の同時期よりずいぶん遅れていました。きっかり1年くらい。でもようやく2語での言葉がでるようになりました。「あっち行く」「これ開けて」「あんぱんまん見る」「ごはん、おかわ」(ごはんおかわりのこと)。
私のことを「アイヤイヤイ」と呼びます。なにかの掛け声かと思っていたら、どうやら私のことなのです。最近気づきました。なんでアイヤイヤイなのか謎です。でもアをはっきりとイを小さく発音するとなんとなくオカアサンなのでしょうか。
「あれぇ?あれぇ?おちちぃー。ない~、あっ、あったあった」これを聞いたときは参りました。いつも散らかった部屋の中で色んなものを探す私が一日に一度は言うからです。「あれ?あれぇ?おかしいなぁ。ない~、あ、あったあった」
それから言葉とは関係ないのですが自分の木製台所でガスコンロのねじを回すとき火を覗き込む しぐさをします。どこでみられているかわからないのがこれからますます苦笑です。二月もう終わりですね。

2011年2月27日日曜日

整体してもらい暦一年

 整体&マッサージしてもらい暦一年ほど迎えました。ブログでは触れていないだけで私はエアロビクスと月に一度の整体&マッサージだけはきちんと続いているのです。この二つはいまや私にとってセットです。エアロビクスで自分でも気づかない踊り方のまちがいや癖があれば必ず体に影響がでてくるでしょう、それを月一度でそんなことになってないか把握できます。エアロビクスをしていないにしても、人間はなくて七癖ですから左右対照完璧に生きている人なんていないなあと思うのです。
月に一度、駆使した自分の体をきちんといたわってあげるいい時間です。もうそんな時期にきているなぁとつくづく思います。10年後20年後の自分を考えていろんなことにチャレンジする話を時々耳にしますが同じことを私はまずは体にしています。

2011年2月26日土曜日

もういやと思う時~

私は今、怒りにみちみちながらこのキーボードをいつもより音をたてて叩いているのです。娘1にはもううんざりです。「お腹がすいた、パスタとウィンナーがたべたい、でもウィンナーはバスタの中に入れないで、別々にたべたい」というからその通りにしました。「わぁああ~」とうれしそうにするのはいいのですが、ありがとうの一言もない。「ありがとうは?」とかいうのももうめんどくさいのでしつけにしても言わなくなりました。それから私も小腹がすいたので娘のお皿にのっている5本のりっぱなバイエルンの1本をつまんで一口食べましたとたん「ぎゃああああああああ」と半狂乱で私に怒鳴るのです。
「なんでたべるの、お母さんのじゃないでしょう」すごい怒鳴り声です。ボリュームたっぷりのパスタに5本のしっかりしたウィンナー、そのうち1本は私用についでに乗せただけなのに。これなら小皿に自分用に1本のせて台所において後で食べればよかったんですけどそこまで騒がれるとは思わなかったのです。一瞬の殺意がめばえました。私は騒ぐ娘を無視してこの部屋に閉じこもってこれを打っているのです。娘が何がしかの反省の姿をみせるまで私はこのままぶっちぎってやります。
だれにでもそんな日があるのです。ああああ、私は35年も子どもなんていなかったのにその長い期間どんだけ自由で自分だけのために生きていたか、それをありがたいとかいちいち思わず生きてきたか、そのへんの感覚を忘れてしまいました。
例えば車ひとつ乗るにしたって、そう、暴れる子どもを押さえつけてチャイルドシートに付け、そこそこ嫌われてからベビーカーをトランクに積んだりします。昔は自分だけサラッとのってそれが当たり前だった・・・たまに窓をあけて富士山に向かってギャーと発狂することがあります。

2011年2月19日土曜日

雨水

雨水ではなくて「うすい」。「この日にお花を買って飾るとその年は幸せにすごせるといわれています。」と書いてありました。ダイエーの切花コーナーのポップにね。今年は2月19日でしたが来年はまた違う日のようです。
ここで一句「スーパーの花売場にて知る雨水かな」

2011年2月16日水曜日

いまわしい記憶

自分が年をとったな~と思うとき。最近薄い紙が重なったのをめくる時に指先をちょっとツバでしとらせた・・・半分無意識だったけど半分はじれったくて。季節柄指先がカサカサしていたのです。
まだウラ若かった頃世界中の人がそうしても自分だけはしないと決めたことのひとつがまさにこの「指先を舐めずにページや紙を繰ること」でした。
もうしないわ、ああ。けど少なくともそうする人達の気持ちがわかるようになったなんて。あのトラウマの渦に自ら身を投じてしまうなんて。
高校の時私は定年退職直前のじいさんに英語の授業を受け持たれてしまいました。「エックス」を「エッキス」とか今にも言いそうな英語の授業を2年も受けるハメになった、それだけでも 忘れたい記憶。
このじいさんがプリントを配る時にきっちり人数分を各列数えなくては気がすまない人でした。やぼったい整髪油の匂いをぷんぷんさせながらえらそうに配る。適当に配って最後列で調整したらいいやんか。もうおわかりかと思いますがその際にたっぷりと自分のツバで指先を湿らせて各列くばるのです。当時再生紙を利用したプリントがほとんどで指先の形がハッキリ薄茶色の紙にうかんでいました。列の数分しっかりと。
最後列以外の生徒はいいのです。そのプリントを避け、後へまわせます。最後列の生徒は最悪です、毎回英語の授業でプリントが登場する度、背中がゾクゾクするのを感じます。ツバ付のプリントを目の前に最後生徒同志、ため息と共に同じ空気を味わうのです。
そういうわけで前述の誓いを立てるのですが、あの時のじいさんの気持ちがちょっとわかる25年後の私が今いるわけです。
この一例からも学べるように世代ギャップのために若い人にげっそりされることがないように気をつけなくてはとおもいます、すくなくとも25年はわかってもらえないわけですから。

2011年2月15日火曜日

夜な夜な話 死人のミサ

ある日、まあその娘の名前を仮にアンヌとしましょう。アンヌはたまたま町の教会に真夜中灯りがともっていることに気がつきます。このあたりのいきさつは子どもの頃の私の記憶にありません、あしからず。
「あら、こんな時間にミサがあるのかしら?」
アンヌは出かけてみました。もうすでにたくさんの人が集まってこちらに背中を向けて座っていました。不思議に思いながらもアンヌは自分も列席しようと思いしばらくその場におりましたが、いつもとは違う、なじめない雰囲気が気になっていました。
 そのときです、アンヌは腰をぬかすほどおどろきました。つい先日亡くなった近所の女性が近くに座っているのです。恐怖に震えているとポンポンッと後から肩をたたかれました。振り返ってみるとやっぱり青白い顔をした若い女性がこちらを見ていました。
「ここはあなたのくる場所じゃないの。ここにいるのはもうなくなった人達よ」その人は言いました
「このマントをかぶってそっと誰にも気づかれないようにここから出て行くのよ」そういって自分の着ていたマントを脱いでアンヌに貸してくれました。アンヌは言われたとおりマントをかぶりそっと教会の外にでようとしました。その時ひとりの死者と目があってしまいました。恐ろしい顔で叫びました。「ここに生きた人間がいるぞ」そのとたん背中をこちらに向けて座っていた人達が一斉に振り返りました。キャーっ。と叫んだかどうかは知りませんがアンヌはあわてて走り出しました。みんながアンヌの着ているマントを掴みます。やめて~アンヌが叫んだときマントが脱げて教会の外に出ることができました。
 夜が明けて、果たしてあれは夢だったのかとアンヌは教会に改めて行ってみました。そこにはズタズタに破れたマントが落ちていました。

2011年2月14日月曜日

おもちゃのかんづめ

森永「チョコボール」のくちばしについているエンジェル(当たりマーク)を銀なら5枚、金なら1枚あつめるとおもちゃの缶詰が当たる。これは日本人なら誰でも知っている情報でしょう。さて本日バレンタイン、私は夫に2カートン、40個の森永チョコボールを贈りました。夫は現おもちゃかんづめの「宇宙缶」にいつになく好奇心をもっているようだったのです。ここは高級チョコより森永でしょう。ダイエーのサービスカウンターで2カートンを一つにまとめて包装してもらったらなかなかの見栄えになりました。
さてエンジェルがこの中に何個あるか。私としても期待せずにはいられません。40個も買ったんだから速攻「宇宙缶」はゲットしたも同然!と決めてかかり夫の帰宅を待ちその反応などとりあえずいそいそと家族4人で開封してみました・・・銀のエンジェルが2枚だけ。1カートンにつき銀1枚の割合です。私の考えはどうも甘かったようです。つまり確実に手に入れるには5カートン100個のチョコボールが必要だったのです。どうりでおもちゃの缶詰には送付期限がないはずです。過去に出た銀が1枚あるのであと2枚です。宇宙缶の間になんとかするべきでしょうか?
知人ママにその話をしたところ過去に地道に集めゲットしたおもちゃの缶詰の中味は期待もむなしくチャチだったとの話。まあチャチなりの好奇心を持ち続けることにしましょう。でもしばらくチョコボールはうんざりです。
エンジェル入りのチョコボールは箱のテッペン部分の「くちばし」という印刷のインクの色がよくよくみればすこしだけ違う、とのことなのですがその真相はいかなるものでしょう。